2024年3月25日月曜日

受難週と主の再臨を待つ者の心構え(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年3月24日 枝の主日

 

イザヤ書63章15節-64章7節

コリントの信徒への第一の手紙1章3-9節

マルコによる福音書15章1-47節

 

説教題 「受難週と主の再臨を待つ者の心構え」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

 今日は教会のカレンダーでは「枝の主日」です。イエス様がろばに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城した出来事を覚える日です。群衆はイエス様が進む道の上に衣服や木の枝を敷き詰め、王様を迎えるように出迎えました。このエルサレム入城の後、イエス様は十字架の受難の道に進んで行かれます。しかし、群衆は今、王としてお迎えしている方にそんなことが起こるとは夢にも思っていません。彼らは、この方こそ、ユダヤ民族を占領しているローマ帝国とそれに取り入る民族の指導者たちを追い払って、民族に真の独立と解放をもたらして下さると期待したのでした。その期待は見事に外れましたが、その代わりに一民族の期待をはるかに超える全人類の運命に関わる大きなことが起こりました。

 

 このように今日はイエス様のエルサレム入城を覚える「枝の主日」の日ですが、ルター派教会のカレンダーでは、受難週の最初の日という扱いにもなっています。今日から始まる週はイエス様が受難の道を進まれる週であり、その頂点としてイエス様が十字架にかけられたことを覚える聖金曜日があります。イエス様は死なれた後、墓に葬られて金曜日、土曜日そして日曜日の朝まで葬られた状態にいます。そして日曜日の早朝に神の力によって復活させられます。

 

 今日の福音書の個所は、ルター派教会の聖書日課を見ると2つ選択肢があります。一つは「枝の主日」の日課で、イエス様のエルサレム入城の出来事を扱ったマルコ11章ないしヨハネ12章。もう一つは、受難週の最初の日の日課で、最後の晩餐から十字架にかけられるところまでを網羅したマルコ14章と15章が定められています。今回、どっちを選ぼうかと迷いました。以前は「枝の主日」を選んでいました。しかし、今年はやり方を変えようと思いました。というのも、スオミ教会は小さな教会なので平日に礼拝を行うと集まる人はとても少なくなります。それは聖金曜日も同じ。フィンランドだとイースター期間は金曜日から翌週の月曜日まで休みですが、日本はそうではありません。聖金曜日の礼拝に出席できないと一つまずいことが起きます。枝の主日でイエス様が歓呼の中で迎えられて、次の日曜日には復活してしまって、めでたしめでたしになってしまう。受難なんかどこにもありません。何だか全てが春のおめでたいカーニバルのようになってしまいます。

 

 そこで、スオミ教会で受難週の平日の夕刻に礼拝をやってもある程度人数が集まる日が来るまでは「枝の主日」はお預けにして、受難週の最初の日でいこうと思います。そうすると、マルコ14章と15章の2つの章を見ることになりますが、これを全部読むと30分以上かかります。これと別に説教の時間も考えないといけません。二つ合わせたら、ちょっと長すぎかなと思いました。幸運なことに、ルター派の聖書日課では、マルコは15章だけでもよいという選択肢もありました。それで、今回はそれを選んだ次第です。ただ、それでもイエス様の受難の前半部分が抜け落ちてしまいます。そこで、本説教ではまず、イエス様がエルサレムに入城するマルコ11章から逮捕される14章の終わりまでを駆け足で振り返ってみて、その後で15章を少し詳しく見てみようと思います。受難週の時、聖書を繙きながらイエス様と一緒に歩むように一日一日を過ごしていくと、主の再臨の日を待つ心構えが出来てくると思います。

 

――――――

 

 イエス様がエルサレムに入城した後で何が起きたか?エルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出した出来事が大きなものとしてあります。イエス様の行動は一見すると、神聖な神殿で金儲けなどけしからんと言っているように見えます。しかし、そうではありません。エルサレムの神殿は、人間が神との関係を正常にするために神の意思に反する罪を償わなければならない、それを動物の生贄を捧げて果たす場所でした。そのような儀式はそれはそれで人間に罪があることを自覚させ、罪はそのままにしてはいけないということを思い起こさせるものでした。しかし、規定通りに儀式を行ったら罪が消えて神のみ前に立たされても大丈夫でいられるかと言えば、そうではなかったのです。

 

 そのような人間の手による罪の償いは不完全なものだからもう終わりにする、それに代えて神が完全な償いを人間に備えてあげよう、それでイエス様をこの世に贈ったのでした。神殿から商人を追い出したイエス様は当然のことながら宗教指導者たちから非難を受けます。商人と言っても、彼らはお土産屋さんを営んでいたのではなく、神殿で捧げる生贄用の動物を売っていた人たちです。その意味で彼らは神殿の宗教システムの一部だったのです。マルコ14章を見ると、イエス様が大祭司の前で取り調べを受けた時、彼が神殿を破壊して三日で新しいものを建てるなどと言ったという証言があります。ヨハネ福音書を見ると、宗教指導者たちに神殿を破壊してみろ、そうしたら私が三日で新しいものを建てると言っています。イエス様が破壊するのではありません。三日で新しい神殿を建てるというのは、まさに、人間が造った神殿では完全な罪の償いは不可能だったが、イエス様の十字架の死と三日後の復活によって可能になるという意味でした。

 

 ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様の活動に心穏やかではありません。あの男は旧約聖書の教え方があまりにも凄すぎる。人々はみなその通りだと信じていく。しかも、奇跡の業も行う。人々はますます彼を信奉し、偉大な預言者とか、かつてのダビデ王の王国を復興してくれるユダヤ民族の王などと担ぎ上げている。このままでは我々の権威が揺らいでしまう。さらによくないことは、占領国のローマ帝国とはせっかく波風立てずにうまくやっているのに反乱の疑いを持たれたら軍事介入を招いてしまう、そうならないうちに早く始末しなければならないと考えるようになっていました。そこに、神殿からの商人追い出しの事件が起きました。これは現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦でした。指導者たちはイエス様を捕まえて死刑にすることに決めました。ユダヤ民族の解放と王国の復興を待ち望む人々の期待が高まっている時に、事態は正反対の方向に進んでいたのです。しかし、その正反対の方向がまさに神が考えていた正しい方向だったのです。なぜなら、それによって十字架と復活の出来事が起きたからです。

 

 神殿からの商人追い出しから逮捕までの間、イエス様は人々に教え続けます。教えはよく見ると、どれもが将来イエス様を救い主と信じるようになる者たちは彼が再びやって来る再臨の日までどういう心構えを持つべきかを教えているとわかります。マルコ11章から12章までです。

 

 イエス様が通りかかった時、実を実らせなかったイチジクの木は枯れてしまいました。イエス様が来る日に実がなっているように準備をしていなければならないのです。そのような準備には祈りが必要であると教えます。祈りを絶やさないことが準備をしていることになるのです。ただし祈る時、心の中で誰かを赦せないということがあってはならないとも教えます。イエス様の犠牲のおかげで神から罪の赦しを受けられて、それでイエス様を救い主と信じるようになったのであれば、彼の再臨を待つ者の心構えとして他者を赦すことは当然のことになるのです。

 

 イエス様はまた、たとえの教えで、ぶどう畑の小作人が所有者の息子を殺害して罰として滅ぼされてしまう。そして、ぶどう畑は別のものに与えられる話をします。これは、罪の赦しの救いを地上で管理する者が神殿儀式のユダヤ教からキリスト教会に移ることを意味します。キリスト教会は主の再臨の日まで罪の赦しの救いを世の人々に伝え、かつそれを受け入れた人たちがその救いを携えてその日まで歩めるように支えなければならないのです。

 

 イエス様はまた、神に選ばれたユダヤ民族は占領者のローマ皇帝に税金を納めていいのかどうかという挑発質問に対して、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せばよいと答えました。この世の権威と権力は絶大なものに見えても、その上に立つもっと絶大な権威に目を向けなければならないということです。主の再臨を待つ者は、いつかは衰退して消え去るこの世の有限な権威権力に目を奪われず、その上に立つ永遠に栄光に輝く神の無限の権威に目を向けていなければならないのです。

 

 さらに、死者の復活などないと言う宗教指導者たちに対してイエス様は、彼らがいかに旧約聖書をいい加減に読んでいたかを暴露します。主の再臨を待つ者は聖書を繙く時、聖書と復活と永遠の命は切っても切れない関係にあることを忘れてはいけないのです。

 

 イエス様はまた、ユダヤ教社会の膨大な数の掟の中で、一番重要な掟は二つ、神を全身全霊で愛することと、神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することであると教えました。膨大な掟集が二つに集約されてしまいました。しかし、そのためにこの二つの掟は途轍もなく広い深い掟になったのです。そのような偉大な掟に自分のあるがままの姿を照らし合わせると、神の意思に沿うことができない無力な自分に気づかされます。実はこれが罪の赦しの救いの入り口に立つことになります。イエス様は、この二つの掟に納得した律法学者のことを、お前は神の国から遠くない、と言ったのはまさにそのことです。主の再臨を待つ者は神の前に無力な存在であることを忘れてはいけないのです。だから、そんな自分を神の御前で大丈夫にして下さるイエス様が待ち遠しくなるのです。

 

 さらにイエス様は、メシアの意味について、当時一般的に考えられていた民族の王様の意味を越えていること、かつてダビデが主と呼ぶくらいに越えている方であると教えます。人間の罪を償い、人間を罪の支配下から贖い出して復活を遂げた主、そして、いつか再臨される主は本当の意味でのメシアなのです。

 

 イエス様はまた現行の神殿システムが宗教エリートを特権階級にしてしまうことや、神殿への捧げものの価値が外見で評価されてしまって、捧げる心が顧みられない現状を批判します。主の再臨を待つ者は、神によく見られるようになるために捧げるのではなく、神から罪を赦してもらったから捧げます、という心にならなければならないのです。

 

 以上の教えはマルコ1112章にあります。今見てきたように、どれもが、イエス様の再臨を待つ者のこの世で生きる心構えについて教えています。次の13章でイエス様は、イスラエルの地の近い将来の出来事から始めて、今のこの世が終わりを告げてイエス様が再臨する日までのことについて預言します。「キリストの黙示録」と呼ばれる箇所です。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫でいられるように目を覚ましていなさいと命じます。主の再臨の日まで目を覚ましているというのは、今まで見てきたような再臨を待つ者の心構えを持ってこの世を生きることです。

 

 一連の教えが終わった後、事態は急速に受難に向かって進んで行きます。ある女性が非常に高価な香油を惜しみなくイエス様に頭からかけます。本当は遺体に塗って亡くなった方に最大の敬意を払うものでしたが、女性はイエス様がまだ生きている時に行いました。イエス様の受難と死はもう回避できないという印でした。イエス様はこの世の王として君臨するのではないことがはっきりしました。しかし、無残な殺され方をされるが、実は高価な香油を塗られるに値する高貴なことなのだと、無残さの裏側に大きな真実があることを示す行為だったと言えます。

 

 そして、イエス様は弟子たちと一緒に過越し祭の食事をとります。イエス様はイスカリオテのユダが宗教指導者たちと組んでイエス様を引き渡す役を引き受けたことを知っています。また、イエス様が逮捕されたら他の弟子たちも逃げ去ってしまうことを知っています。これから全く一人で通過しなければならない受難が待っていると知っています。しかし、全てをやり遂げたら、人間はイエス様の犠牲のおかげで罪の償いを自分のものにすることができるようになります。このように罪を償ってもらった人はイエス様を救い主と信じる信仰を携えて世を神の子として歩めるようになります。信仰者が主の再臨の日まで信仰に留まって歩むことが出来るように、歩む力を得られるように、イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を設定して下さいました。主の再臨を待つ者にとって洗礼に並ぶ大事な儀式です。

 

 食事の後、イエス様は弟子たちと一緒にゲッセマネに行ってそこで祈ります。イエス様はこれから起こる受難がどれほど辛く苦しいものであるかよく知っています。なぜなら、誰か一人の人間の罪ではなく、全ての人間の全ての罪の罰を神から受けなければならないからです。最初イエス様は、それを避けられる可能性を神に祈ったほどでした。しかし、神の意思が実現することが自分の思いよりも大事だと祈り直します。イエス様は全てを神の御手に委ねたのです。弟子たちは疲れ果てて眠ってしまいました。イエス様も同じ位疲れていたでしょう。しかし、イエス様は立ち上がって進みました。このように私たちが弱くても、イエス様は私たちのために立ち上がって私たちの代わりに進んで下さるのです。

 

 まさにその時でした。指導者たちの回し者が押し寄せてきました。イエス様は逮捕されてしまいました。弟子たちは逃げ去ってしまいました。イエス様は最高法院に連行され、大祭司のもとで尋問を受けました。訴えは食い違いが多く、筋の通った決定的なものがありません。業を煮やした大祭司がイエス様に聞きます。お前はメシアなのか?そうだ、とイエス様は答え、さらに、人の子は神の右に座して、天の雲と共に到来すると、自分の再臨について述べます。怒り狂った大祭司は、イエス様が神を侮辱したと叫び出し、一同は死刑に処するべきと一致します。イエス様に容赦ない暴行が加えられました。遠くから様子を伺っていたペトロは、お前はあの男の仲間ではないかと聞かれ、三度、イエス様との関係を否定してしまいます。そしてイエス様が言った通りになってしまったと気づきました。あれほどどんなことがあってもついて行くと言ったのに、なんという失態!ペトロは激しく泣いてしまいます。イエス様を信じた者が周りに対する恐れから否定してしまうというのは途轍もない後悔を引き起こします。しかし、後でペトロは罪を赦され、信仰を公けにする者に変わります。主の再臨を待つ者とは、信仰を公けにする者なのです。

 

 イエス様は最高法院からローマ帝国のユダヤ総督のピラトの元に送られます。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、死刑は支配国の法律に基づいて行われたからです。ピラトはイエス様がひょっとしたらユダヤ民族の王かもしれないと思ったようです。宗教指導者たちがイエス様を引き渡したのは、彼が多くの人たちの支持を受けたため、自分たちの権威が脅かされると恐れたからだとわかっていました。別にこの男が王だとしても、ヘロデもローマに服従したし、誰が王になってもローマは服従させる自信はあります。

 

 さて、過越し祭の時にはユダヤ人の希望を聞いて死刑囚を一人釈放する慣行がありました。今ピラトの前に宗教指導者たちが集めた人たちがいます。ピラトが提案しました。ユダヤ人の王イエスを釈放しようか?しかし群衆は釈放するのはバラバだと叫びます。十字架刑はイエスだ、と。彼らは指導者の指示通りに叫んだのです。驚いたピラトが、イエスは一体どんな悪事を働いたのかと聞きますが、群衆はただ十字架につけろと叫ぶだけです。ピラトは十字架につけるのはイエス様に決め、バラバを釈放しました。そこからは屈強なローマの兵士たちがイエス様に対して容赦ない暴行を加えます。その後、イエス様は自分が吊るされる大きな十字架の木を背負わされて処刑場まで運ばされます。恐らく半殺しのような状態だったのでしょう、背負いきれなかったので、兵士たちは通行人のシモンに命じて一緒に運ばせました。

 

 ゴルゴタの処刑場に着くと、さっそく十字架につけられました。両腕を左右に引き伸ばし、両方の手首と一つに重ねた足首に五寸釘を打ち付けるのです。激痛といったらなかったでしょう。当時十字架刑は最も残酷な死刑の仕方でした。十字架の上で苦しんで死んでいく様子をずっと公けにさらしものにするのです。通りがかりの人が見て、指導者たちと一緒になってイエス様に嘲りと侮辱を叫びます。民族の解放者のように騒がれていたのに、なんだあのざまは、と。ついこの間、ロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムの町に入城した面影は全くありません。

 

 イエス様が十字架につけられて3時間ほどたった正午の頃でした。大地が突然暗くなるという事態が起きました。イエス様が神罰を受けて苦しまれている状態を象徴する現象でした。暗い状態は午後3時位まで続きました。ちょうど暗さが収まって明るくという境目の時に、イエス様が母語のアラム語で叫びました。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのか?」これを聞いた人たちは、昔生きたまま天に上げられた預言者エリアが来て彼を天に上げてくれるように頼んでいると誤解しました。イエス様が直ぐ息を引き取らないようにと海綿に酸いぶどう酒を含ませて棒に付けて飲ませようとしました。しかし、イエス様はそのまま息を引き取られました。

 

 ちょうどその時、神殿では大変なことが起きました。神殿の中の最も神聖な場所で、大祭司だけが入れて神と対峙する至聖所の前にかかっている垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。イエス様が十字架につけられて激痛の中を苦しんでいる時、大地が暗闇に覆われた時、イエス様は人間の全ての罪の罰を受けたのであり、同時にイエス様と抱き合わせの形で罪も滅ぼされたのです。暗闇が終わってイエス様が息を引き取ったのと同時に、罪ある人間と神聖な神を分け隔てていた垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。まさにイエス様の体を神聖な犠牲として捧げたので、人間と神を分け隔てていたものがなくなったことが明らかになった出来事でした。不思議な暗闇の中でイエス様の前に立って一部始終を見ていたローマの軍隊の隊長はイエス様が息を引き取るや否や暗闇が終わったことに恐れを抱いたのでしょう。この方は本当に神の子だったと叫んだのです。

 

 イエス様の十字架刑の細かい出来事を見ると、例えば、兵士たちがイエス様の服を分け合うためのくじ引きを引いたこと、酸いぶどう酒を飲ませようとしたこと、またイエス様が最後に叫んだ言葉、これらはみな旧約聖書に預言されていたことでした。イエス様の受難は全て神の計画通りに進んだということです。

 

 さて、イエス様が亡くなられた後、最高法院の議員ヨセフがピラトのもとに行ってイエス様の遺体の引き取りを願い出ました。彼は神の国を待ち望む人でした。つまり、イエス様が神の国について熱心に教えたことを信じたのです。ということは、今の世が終わる時に起こる死者の復活も信じていました。復活に与る者が神の国に迎え入れられます。今イエス様は死なれました。この後どうなるのか?あの方は3日後に復活すると言っていたそうだが、今の世がまだある時に復活が起こるのだろうか?しかし、今はまだ何もわかりません。しかし、今しなければならないことは、イエス様の遺体が宗教指導者に引き取られて打ち捨てられるようなことがあってはならない。彼は勇気を出して占領国の総督ピラトの元に行きました。幸いなことに引き取りは認められて、イエス様の遺体を埋葬します。彼が埋葬したおかげで、3日後の空の墓の出来事が起こりました。イエス様の復活の重要な証拠になったのです。このように、主の再臨を待つ者は、他人がどう見ようが何を言おうが、イエス様が教えたことを信じて彼に敬意を抱いて行動すると、神は予想もしない大きな業をもって返して下さるのです。

 

 主の再臨を待つ者の心構えは、福音書の受難の出来事の他にも、本日の旧約の日課イザヤ書50章と使徒書の日課フィリピ2章にも示されています。

 

 イザヤ書50章は、イエス様が暴行を加えられる場面を想起させます。しかし、この主の僕は、神が自分の正しさを認めてくれているとわかっています。暴力をもってしても曲げられないと。主の再臨を待ち、神の罪の赦しの恵みの中で生きる者は、誰かが私を訴えようとしても、天地創造の神が私の無実の証言者になってくれているので、私にはやましいところはないという気概を持てるのです。

 

 フィリピ2章は、パウロがキリスト信仰者は自分のことだけを考えるのではなく、他の人たちのことも考えなければならない、それはイエス様がそうだったからだと言います。どのようにそうだったかと言うと、『神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたからです。この世で、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だったからです。』主の再臨を待つ者は、自分のことだけを考えるのでなく他の人たちのことも考える時、イエス様を身近な例として持っているのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年3月11日月曜日

君は心の目でイエス様の十字架を見つめられるか?(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年3月10日 四旬節第四主日

 

民数記21章4-9節

エフェソの信徒への手紙2章1-10節

ヨハネによる福音書3章14-21節

 

説教題  「君は心の目でイエス様の十字架を見つめられるか?」 

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに 

 

 旧約聖書と新約聖書は互いに密接に繋がっています。旧約聖書に来るべき救世主のことが預言されていて、それがイエス様の出来事で実現して新約聖書に記されました。それで、旧約、新約はそれぞれ天地創造の神の人間救済について計画段階と実現段階を述べていると言うことができます。このように聖書は全体として神の人間救済についての書物です。

 

 旧約と新約が互いに密接に繋がっているということは預言の実現だけではありません。それは、旧約にある出来事は将来のイエス様の出来事を初歩的な形で先取りしていたということがあります。その一つの例は、エルサレムの神殿で行われていた礼拝でした。イスラエルの民は神殿で毎年、罪を償う儀式として大量の牛や羊を生贄にして神に捧げました。それが、イエス様が十字架の上で死なれたことにより、人間の全ての罪の償いが果たされたということが起こりました。それで何かを犠牲にする必要はなくなり、神殿の存在理由がなくなってしまったのです。神殿の儀式は罪の償いの実物ではなく、実物はイエス様の十字架でした。神殿の儀式はそのミニアチュアのようなものだったのです(礼拝の説教中に一つ思い当たり、ひょっとしたら自動車のコンセプトカーと実際に生産販売される自動車の違いのようなものではないかとも申しました)。神殿では大量の生贄を毎年捧げなければならないので、神に対して罪を償うというのはとても大変なことだということは誰にでもわかりました。それが神のひとり子の一回限りの犠牲で未来永劫しなくていいということになったのですから、イエス様の犠牲の力の凄さと言ったらありません。

 

 本日の福音書の個所のイエス様の教えにもミニチュア/コンセプトと実物の関係があります。遥か昔モーセがシナイの荒れ野で蛇の像を掲げて、それを見た者が毒蛇の毒から救われた、それと同じように十字架に掲げられたイエス様を信じることで人間は永遠の滅びから救われるという教えです。これもイエス様の十字架が実物でモーセの蛇の像はそのミニチュアという関係にあることを示しています。今日はこの関係をよく見て神の私たちに対する愛と恵みをより深く知るようにしましょう。

 

2.      信じるとは、心の目で見つめること

 

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3121節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛と人間の救いについて、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについて教えられます。

 

 まず、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げた出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では、作った蛇を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥプラス前置詞エルは辞書によると英語のlook atgaze atです。「見上げる」、「仰ぐ」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

 

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたという共通点にとどまらない深い意味があります。

 

 本日の民数記の個所に「炎の蛇」が2回出てきます。最初は神がイスラエルの民に対する罰として「炎の蛇」を送ります。その次は神がモーセに「炎の蛇」を作りなさいと命じます。興味深いことに各国の聖書は最初の蛇を「炎の蛇」と訳さず「猛毒の蛇」と訳しています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ところが、ヘブライ語の辞書を見ると「猛毒の蛇」はなく、「炎の蛇」です。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて辞書にはない「猛毒の蛇」で訳したのではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、合理的な解釈をしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、その欧米で作られた辞書に「炎の蛇」とあるのだから、別に「炎の蛇」でいいじゃないか。それと、神がモーセに作りなさいと言った「炎の蛇」も、各国の訳はそう訳していません。素直じゃないと思います。

 

 さて、モーセは「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりました。これは一体どういうことでしょうか?次のように考えたらよいと思います。

 

 モーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを言われた通りに旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。これが堕罪の出来事です。

 

 イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神の意思に反する罪を犯すと、罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いことを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、冷たくなった蛇の像が現している罪の無力化がその通りになって死を免れたのです。

 

 これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを回復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。イエス様は全ての人間を代表して全ての罪を神に対して償って下さったのです。それと、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力です。人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありません。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。復活が起きたことで死を超える永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

 

 このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部果たし、罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは歴史上、本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。荒れ野の民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた罪の無力化がその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それで、モーセの蛇の場合と違って、イエス様の十字架の場合は「見つめる」ではなく「信じる」と言うのです。しかし、イエス様を信じるというのはゴルゴタの十字架を心の目で見つめることでもあります。次にそのことを見てみましょう。

 

3.      一度だけでなく、何度でも見つめること

 

 イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時に起こります。肉眼の目を通して見たわけではないのに、まるで肉眼の目で見たのと同じように頭の中に映像があるのです。もう心の目を通して見ているとしか言いようがありません。

 

 そこで、イエス様の十字架を心の目で見つめることは洗礼の時の一回だけで終わらないこと、洗礼の後も何度も何度も繰り返して見つめることになることを忘れてはいけません。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったと言っても、神の意思に反する性向、罪はまだ残っているからです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも頭の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない不注意があって罪を言葉や行いで出してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?イエス様が果たしてくれた罪の償いと贖いを台無しにしてしまったことになり、神罰を受けるしかないのでしょうか?

 

 いいえ、そうではない、ということを毎週、本教会の説教で申しています。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で認めて赦しを願い祈ります。「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで今も打ち立てられて微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦す、だから、これからは罪を犯さないようにしなさい。」

 

 こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることができたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることの繰り返しです。それで、十字架を見つめることは何度もします。そうやって何度も再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛です。そのことをヨハネ31416節はよく言い表しています。

 

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。それほどに神は世を愛された。それで、独り子をお与えになった。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(後注)。」

 

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

 

 ヨハネ3章の本日の箇所の後半(1821節)で、イエス様は自分を信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても少し気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

 

 318節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたら穏やかではないでしょう。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険にある。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正します。信じなければ状況は何も変わらず、滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

 

 319節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

 

 320節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒されたくないからだと言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るのではと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教は本当は独善的でも何でもない。そのことがわかるために、キリスト信仰者とそうでない人の違いを見てみます。そうでない人は造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

 

 キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口にした言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからもわかるように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。321節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

 

 このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。321節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

 

 翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、神の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないようにするというのは、詰まるところ人々が心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超える永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

(後注)ヨハネ316節の訳し方について。ουτωςを後ろのωστε~と結びつけて考えると、「神はひとり子を送るほどに世を愛された」となります。これは一般的な読み方です。

 もう一つの読み方は、ουτωςを前の14節と15節で言われていること、つまり、「モーセが荒れ野で蛇を上げたのと同じように人の子も上げられなければならない、それは彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった」、ουτωςはこれを受けているという見方も可能です。そうすると訳は、「彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった。そのように神は世を愛した。それで、ひとり子をこの世に送られた」になります。

 どっちがいいか、是非皆さまでご検討下さい。

2024年3月4日月曜日

いつ人は十戒の掟を仕方なくではなく、 喜んで守れるようになるか? (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年3月3日 四旬節第四主日

 

出エジプト記20章1-17節

コリントの信徒への第一の手紙1章18-25節

ヨハネによる福音書2章13-21節

 

説教題 「いつ人は十戒の掟を仕方なくではなく、

喜んで守れるようになるか?」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      神を愛するから掟を守るのか、それとも神から愛されるので守るのか

 

 本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。十戒には、創造主の神の意思が明確に示されています。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた創造主の神の意思です。それなので十戒は神に造られた全ての人間に関わる掟です。神はそれをモーセを通してイスラエルの民に、あたかも全ての民族の代表者のようにして与えました。それでイスラエルの民は自分たちこそ全知全能の神に選ばれた、神に一番近い民という誇りを持ったことは当然のことでした。

 

 十戒はキリスト信仰者の皆さんはよくご存じのものですが、信仰者でない方もこの説教を聴いたり読んだりするので、少し内容を見ておきます。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係についての掟です。第4から第10までの掟は、人間同士の関係についての掟です。神と人間の関係についての掟を見ると、第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名前を引き合いにして誤った誓いを立ててはいけない、また不正や偽り事に神の名前を引き合いにして唱えるのは神聖な名前を汚すことになるのでしてはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

 

 人間同士の関係についての掟を見ると、第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にしようとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。まさにSNS時代に相応しい掟です。第9と第10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

 

 私たちのルター派の教会では大人の方がキリスト信仰者になるべく洗礼を受けようとする時は、前もってルターの小教理問答書を学ばなければなりません。ルター派以外の教会から転入する人も同じです。小教理問答書の内容は、十戒の他に使徒信条、主の祈り、洗礼、聖餐式、罪の告白と赦しについての教えがあります。十戒の解説を見ると、一つ一つの掟の最初に次の言葉が来ます。「あなたは神をおそれ、愛さなければならない。」その後に掟の解説が続きます。神をおそれ、愛さなければならないというのは一体どういうことでしょうか?神をおそれるというのは、神を怖いと思う恐れの意味と、神を高く祀り上げて自分を低くする、畏れ多いという意味の二つが合わさっています。そんなおそれるべき神をどうして愛することができるでしょうか?十戒の一番最初の掟で、それはできる、だからそうしなければならないと言うのです。それを見てみましょう。

 

 まず、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と神は言われます。「わたしを否む者」というのは、ヘブライ語のもともとの意味は「わたしを憎む者」です。天地創造の神以外の神を拝む者は天地創造の神を否む者です。それは神を愛していないことになり、それで憎む者と言われるのです。そのような者が犯した罪は三代目、四代目の子もその責任を負うことになると言うのです。まさに罪の呪いです。そういうことを言う神は真に恐ろしい方です。

 

 ところが神はすかさず言われます。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」先ほどの、神を否み、神を憎む者の反対のことが言われます。神を愛する者とは、創造主の神のみを神として崇拝する者です。神の戒めを守ると言う時の「戒め」はヘブライ語は複数形なので十戒の全部の掟を指します。神を愛し崇拝し十戒の掟を守る者には幾千代にも慈しみが及ぶ。「慈しみ」はヘブライ語のヘセド、神の恵み、親切、見捨てないことという意味があります。それで、永久と言えるくらいに神から恵みと親切を受けられ、見捨てないでずっとついていてくれると言われたら、神は真に愛すべき方です。

 神は神を愛さず罪を犯す者にとっては恐ろしい方であり、神を愛し十戒を守る者には愛すべき方です。そうなると、罪を犯す者にとっては愛すべき方ではなく、逆に、十戒を守る者には恐ろしい方ではありません。しかし、私たちは神を恐れると同時に愛さなければならないというのはどうしてでしょうか?罪を犯す者が神を愛するようになることは可能なのか?十戒を守る者が神を恐れることはあるのか?エゼキエル書33章を見ると、神は十戒に背く者が神に立ち返って守るようになることを強く望んでいることが言われます。3316節では、背く者が掟を守るようになり不正をしなくなれば神はその者の過ちを思い起こさない、不問にするとまで言われます。なので父が罪を犯しても、このように生き方を変えれば罪は問われなくなる。もし三代目、四代目の子孫もこの方針を続けていれば、問われなくなった父の罪は何の影響もありません。なので、罪を犯す者にとっても神は愛すべき方なのです。エゼキエル書の同じ33章では逆のことを言っています。もし神の掟を守る正しい人が「自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ」(13節)。そうなれば、3代、4代先の子孫まで影響を及ぼす事態になります。なので、掟を守る者にとっても神は恐るべき方なのです。

 

 そこで一つ問題が出てきます。十戒の掟を守ると神は恵みと親切を与え見捨てないでいて下さる、掟を守る者は神を愛しているから守る。そうすると、人間がまず神を愛して掟を守って、神から見返りに恩恵を受けるということになる。そうすると、第一ヨハネ410節で言われていることと相いれなくなります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神が先に私たちを愛したのであれば、私たちが掟を守ることは恩恵を受けるためではなくて、神から愛されたから守るということになります。ここにキリスト信仰の十戒の守り方の真髄があります。これからそれを見ていきましょう。

 

2.イエス様は究極の神殿

 

 本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、イスラエルの民がモーセの指導の下、神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。その主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(224節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿税の納入のために通貨を両替する必要がありました。

 

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、罪の赦しを与える方はまさに創造主の神です。しかし、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような態度は傲慢です。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書11117節、エレミア書620節、72123節、アモス書44節、52127節など及びイザヤ2913節も)。

 

 イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。どうして彼はそこまで憤ったのか?それは、本当ならばユダヤ民族だけでなく全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ567節、マルコ1117節)が、金もうけをする場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ219節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?

 

 復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、すなわち罪を持つようになってしまいました。そのために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になったのです(第一コリント57節、ヘブライ910章)。

 

 イエス様の犠牲は、それまでの神殿の牛や羊などの動物の生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ129節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ92428節)、本当に完璧な生け贄だったのです。

 

 イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄だけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代価が、神のひとり子イエス様が流した血でした。

 

 そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした者ということになります。まさにエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことをイエス様が果たして下さったのです。そういうわけで十字架の死を遂げて復活されたイエス様は真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

 

3.      十戒の掟を感謝と喜びを持って守れるようになる。

 

 ここで十戒に戻りましょう。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ52122節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ52730節)とも。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思っただけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は人間に心の中までも潔白性を要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。ローマ310節で使徒パウロが、神に相応しい義を持つ者は誰一人としてもいないと断言したのはそのためでした。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。

 

 神聖な神がこのような人間に不可能な完全さを要求するならば、人間はどうすればよいのでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を恐れて神から逃げるか、または神は人間の本性を理解できない酷い方だと反発するかのどちらかでしょう。どっちをとっても神に背を向けて生きることになってしまいます。

 

 ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。ただしそれは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金にして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのことを洗礼を通して頭からすっぽり被せられているからです。だから十戒の鏡で罪を照らし出されても恐れや反感を抱かずに神に向き合うことができるのです。

 

 イエス様が果たしてくれたことを自分のものにしていない人は、罪を照らし出された時、自分は罪があるから神に相応しくないとわかります。しかし、イエス様が果たしてくれたことを自分のものにした人は、彼のおかげで自分は神に相応しいものにかえてもらった、という喜びがある自覚になります。その時、十戒の掟を守ることは神に罰せられないために仕方なく守るという消極的な守り方でなくなります。神から恩恵を受けるために守るという報酬主義もなくなります。こちらが何もしないうちに恩恵を与えてもらったので、イエス様を贈って下さった父なる神に感謝し愛することの現れとして神の意思に沿うように生きよう、十戒を守ろうという積極的な守りになっていきます。

 

 しかしながら、十戒の守り方が積極的になっても、再び罪を十戒の鏡に照らし出される時があります。その時は、罪の赦しの恵みの王座の前で罪を認めて告白し、ひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという神の恵みをまた受けます。そうしてまた恵みを受けた感謝と喜びがあって、神を愛する現れとして十戒を守るようになります。キリスト信仰者は人生の間、何度も何度も罪の赦しの恵みを受け、何度も何度も神を愛して十戒を守るようになることを続けていきます。この繰り返しは、復活の日に最終決着がつくのです。

 

 イエス様は十戒について、心の中の潔白さも問うものであると教え、十戒を表面に留まらないとても深いものにしました。それで十戒は罪を照らし出す鏡のような働きがあるのです。イエス様はさらに、十戒の「してはいけない」ことは実は「しなければならない」ことも視野に入れていることを教えました。それで十戒はとても広いものになったのです。イエス様は人間同士の関係を律する7つの掟について、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟をその趣旨に照らして見ると、小教理問答書の中でルターも教えるように、「殺すなかれ」はただ殺人を犯さなかったら十分というのではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入ると教えました。他の掟も同じように広くなりました。このようにイエス様は、十戒の掟を広く深くして完全なものにしたのです。それが神の意思だったのです。十戒を広く深いものにして私たちが受け入れて守れるようにする、しかも感謝と喜びをもって守れるようにする、そのためにイエス様は十字架と復活の業を遂げられたのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン